2011年12月1日木曜日

美智子のブログ 1周年記念

ミチコのイスラエル旅行記(をクリック)でデビューした美智子のブログもおかげさまで12月1日で1周年を迎えました。

皆様からの熱い応援ありがとうございます。 心から感謝申し上げます。


私自身 小さな存在ですが、 コツコツとブログを更新することによって、読者も増えてまいりました。

今後 さらに応援 できたら声援も(コメント)よろしくお願いします。

これからも益々と言いたいですが、 コツコツがんばります。   スズメのお話のように、、、

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私にだってできるーー スズメのお話

韓国の古いお話で、山火事のお話があるのですが、
山が火事になってしまって、そこに住む虎も鹿も熊も、
動物たちがみんな逃げ出して行ってしまいました。

しかし、一羽の小さなすずめが、自分だけはどうしても
この山から離れられない、離れたくない、として、
小さなくちばしで一生懸命に、小川から水を汲んで
火を消そうと努力していました。

火事はどんどん燃え広がっていきます。
力のある大きな動物たちは、みんな逃げ出してしまい、
すずめの小さな力だけではどうすることもできません。
しかし、それでもすずめはあきらめきれず、ひとり
火消しを続けていました。

その姿を空から見ていた雲が、すずめの想いに感動し、
雨雲を呼んできて、一気に雨を降らして火事を消してしまいました。


どうやらスズメには 山をも動かす信仰と情熱があったようです。

山を動かす信仰、

イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、その通りになる。」。

24節「だから、言っておく。祈り求めるものはすべてすでに得られたと信じなさい」と。

イエスは、いったいこの言葉で、何を語ろうとされているのか。
最初にイエスは、「神を信じなさい」と言われています。

神を信じるとは、一言でいえば、神は、愛であり、聖であり、義である方、また約束されたことは必ず守られる方。そういう神の信実に自分の人生のすべてを委ねるということでしょうか。だから、信じるというのは、神の信実だけを信頼して、神の言葉に従う行為といえます。

その強い信仰を持たせて下さるのも神の計らい。そして、その人間にはできもしない願いを聞いて下さるのも神。人間は ただひたすら自己を無にして委ねるしかないのですね。
人間にはできないことでも、神にはできる。神は何でもできる。神は無から有を造られる方。そうですね、人間には山は動かせないけれども神ならそれが出来る。
ただ人間は、神が信実であって、その言葉は必ず実現するという事実を信頼し、人生のすべてをかけてその言葉に従う。そうすれば、何でもできる神を味方につけることが出来るから、これほど心強いことはありません。

山を動かすように願うのは人間であるが、山よ動け、と言葉を発し実現させるのは神であり、人間の努力ではないからです。そこには、神にはできないことはないという信仰があります。そういうことをイエスは言いたかったのではないでしょうか。
イ エスは人間にできるとは言われていないのですね。そういう信仰をもてばできるといわれているのです。わたしはまだ人間がすることだと思っているから、疑心 暗鬼になるのですね。 そして、よく考えれば、その強い信仰も、聖書によれば、人間の努力などで持てるものではないのです。神が与えてくださるものなのです。

神 を信じるとは、神の信実だけに基づいて、神の言葉に人生のすべてをゆだねるということ。それは、神の言葉が啓示され、約束された事が、まだ見てい ないこと、理解できないこと、人間の目には不可能と見えることであっても、それを語った方が信実で、この世で唯一信頼するに値する方であるということだけ を当てにして、行動し、生きること。 その言葉は必ず成る。その言葉を成し遂げるのは神であって、「神にはできないことはない」ということを信じて生きる こと。
マルコによる福音書第9章23節のイエスの言葉、「信じる者には何でもできる」というのは、この意味だと思います。
そのように考えると、イエスが神を信じよと言われた後、この山に向かって・・と語られたのは、信じるという行為には不可能はない、神には不可能はないということを極言された言葉ではないかと思えるようになりました。
それを実現されるのは、全能の神ですから、できないことはないのです。あなたが信じる神はそういう神である、だから安心して信じなさいといわれているように思います。

問題は、個々の祈りが神の言葉、御心に従った祈りであるかどうかであるということではないでしょうか。こうしてみると、信仰とは量ではなく質の問題なのですね。
自分が祈り求めることが実現する祈り、神の御心、祈りが神の言葉に沿った祈りとなるのは、聖霊によって神と親しい交わりにあり、神がすべてとなり自分が無になっている時に聖霊に導かれて祈る祈りということになるのではないのでしょうか。

イエスはこのような神との交わりにおいて完全な方であったので、発せられる言葉がただちに神の言葉としての力を持った。
つまり、山が動くというような奇跡は科学の問題ではなく、信仰の問題で、信仰が生まれて奇跡が伴うと言えるのでしょう。信仰なくして奇跡はありません。そして、その信仰は神から与えられるものです。
イエスは、神を信じれば山をも動かせるといわれましたが、神にはそのようなこともできないことはないのですが、イエスは、人間に説明する上でそのようなたとえでもって、神を信じるということの意味を説明されたと思います。実際に、山を動かすのが神の御心だとは思いません。

先 頭に書いた、24節の聖句は、祈り求めるものが、御心ならば、必ず実現する。神が祈りにこたえるとおっしゃったなら、それはもう実現しているので すが、時間の世界に住む人間に分かるのは将来です。あとはそれを信じて神の信実を信じることしか人間にはできません。それが信仰というものなのでしょう。

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