2011年3月3日木曜日

今 全てを公開! 美智子の拉致監禁体験とその真相   

人生の目的について悩んでいた私は 統一原理に21歳のとき出会いまして 真理、死後の世界の存在、神の存在を知りました。  その後、父と兄からの5回に及ぶ拉致監禁の後 (精神病院に連れて行かれたり、 親か教会かどちらかを選択しろ、 もし教会を取ったら お前を殺して自分も死ぬと 脅かされたり、、、、)大岡さんが私をつれて私の父を説得に行ってくださいました。 

父は”親の言う事を聞かない こんな娘はいらない”と激しい口調で言いました。 大岡さんは ”それでは私が みっちゃんを養女にします。 そしてりっぱに結婚させてみせます!” と きっぱり強く言い返しました。
売り言葉に買い言葉の一瞬の出来事が本当になりました。
実親に疲れきっていた私は籍を抜いて、大岡さんの養女になりました。 25歳のときでした。

統一教会の教えは 人種差別をなくして神の下に人類一家族を目指しています。そのための結婚は聖なる儀式であり
私たちはそれを祝福とよびます。
国際祝福は人種差別を乗り越える最短距離です。 

大岡の養母は私に国際祝福を強く願いました。 国際祝福を受けたら 私の実の両親はさらに嘆き悲しむことはわかっていながらも 養母の期待を裏切るようなことは私には到底できませんでした。 養母は黒人と受けても感謝しなさい。と私に言いました。 誰と祝福を受けても 私の祝福を喜んでくれる人がひとりいると それだけを希望に祝福に臨みました。

1982年  Rev. Moonによって 今の夫とマッチングと祝福(合同結婚式)をマジソンスクウェアーガーデンで 受けました。(2075双) 私は26歳 夫は24歳のときでした。

帰国して祝福のことを実父母に報告しましたら もうすでに 籍を抜いて自由になった身であるにもかかわらず 父と兄は親に言わずかってに結婚したと言って激しく怒り
母は "統一教会の信仰を持ち続けるにしても せめて夫が日本人であれば 孫の世話ができたのに”と嘆き悲しみました。
父は”お前の教育が悪かった”と母を攻め立て 母はノイローゼに 父は高血圧で倒れました。
兄は"お前ほどの親不孝者はいない”と私をののしりました。

遂に 気丈な私も限界が来ました。 自律神経失調症になりました。 食欲はなくなり 歩けなくなりました。 人と話もできなくなりました。 センターの部屋から出ることもなく トイレには這って行きました。 同じ部屋の姉妹は元看護婦でそれはそれは 真心こめた看病をしてくださいました。 前線から帰ってきては私の看病をしてくれて それを自分のミッションのごとく 中心者に報告してくれてました。動けなくなった私を朝に夕に毎日勇気づけてくれました。
6ヶ月後 全快した私は 渡米しました。

アメリカの始めての任地はノースキャロライナでした。 ラリーという美しい町にセンターがありました。
センターに行く道は 大きな木が両脇に茂っていて ディズニーの白雪姫の森の中にいくような別世界に来た雰囲気でした。

3年間はお互いを理解しあい 人格を磨くために別居しました。彼は毎週手紙を送ってきてくれました。 彼の手紙を読むのが 私の英語の勉強にもなりました。 しかし英語が全くわからない中で ウエスタン2,3人と私一人が日本人の開拓生活は 私ほど 苦労している人はいないと思う程でした。 2075双の日本人姉妹はみんなそう思ったようです。
その間 4回も 自律神失調症になりました。  

養母は私によく手紙やお小遣いを送ってくれて 激励してくださいました。 私が おねだりしてほしいといったものは何でも 送ってくださいました。 養母は娘がアメリカでがんばっているのが 天下を取ったような気分だと手紙に書いてきました。

30歳で家庭を出発しまして 3人の子供に恵まれました。幼い子供たちをつれて グリーンカードを取るために夫と日本にいきましたが 父は 私たちと会うことを拒絶しました。(1992年) 母と姉たちと天王寺の駅で会いました。
養母は かわいい孫の元気な顔をみたら もう思い残すことはないと言って喜んでくださいました。 あなたの両親を説得することができず 理解してもらえず  それだけが心残りで申し訳ないとも言われました。 籍をもとに戻すようにと養母から言われましたが いまさらと言って実母に断られました。

それから 数年後私一人で日本に帰ったとき、意を決して 父に会いにいきました。
父は笑顔で ”どこのどなた様でいらっしゃいますか?” と言いました。 "美智子です。アメリカから帰ってきました。”
と言いましたら、"私はアメリカには娘はおりません。” と笑顔で話してくるではありませんか。
”どこのどなたか知りませんが、遠い所からわざわざ、、、、、、、、、、、、”

私は全身の力が抜けて 呆然と立ちすくんでしまいました。 
後で母に確認しましたが 父から私の記憶だけがなくなってました。 あまりにも 悲しい出来事だったから 父も忘れる努力をしたのでしょう。

私は信仰をもって20年間 親から理解されるためにどんなに苦労したことか。
忘れようとしても 忘れることができず、愛と憎しみの交差する中で信仰で許そうと 愛と感謝で乗り越えようと どんなに身もだえしたことか。アメリカから毎月母に手紙を書きましたが 29歳のときはじめて母から手紙をうけとり 声をあげて泣いたこと 覚えてます。

 両親は1999年 同じ年に他界しましたが 2月と9月にあった葬式は知らされませんでした。
翌年 3月友達のお母さんからの電話で両親の死を知らされました。

それから10年後の今 私は父に対して思うことは 父は私以上に苦しんだこと 私が忘れようと努力した以上に
父はその悪夢を忘れようと努力したことを 察する心の余裕がでてきました。

今 完全に父を許していけるような 気がします。
父は霊界から 私を応援してくれていると思います。

父がとても慕わしく感じられる 今日の一日でした。

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2 件のコメント:

  1. I love your blog so much. All of them are very inspiring. Thank you!
    Noriko

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  2. ありがとうございます。
    Peace makerのブログもどうか愛読してください。
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