2013年5月10日金曜日

忘れることへの努力

 学校教育は覚えることを 重要視しますが、 人生60年近く生きてきて思うことは、 忘れることへの努力って大切だなあ、 と思うのです。

 以前 「喧嘩してわかった妻の記憶力」 という川柳が一等賞をとったそうです。

 男性よりも 女性の方が事細かく忘れずに覚えているようです。
この世の男という生き物は、 自分に都合が悪いことは、全部忘れるシステムになっているのではないかと、 思うのです。

 ですから、 私も 夫の今までのことは全部白紙にして夫が私を愛してくれたことだけを覚えて天国にもって行きたいと思います。

 ところで 私がひどく感銘を受けたのは、 伊達政宗の人生です。

 彼は、 5歳の時、 病気で片目の視力をなくし、家督を継ぐのにはふさわしくない、 と思われて育ちました。
次男を跡継ぎにしようと、 次男を寵愛する母。 彼は、 そんな実母から 二度も殺されそうになりました。 幼少の時に一度、 そして家督をついだ後、 次男を跡継ぎにするために、正宗を食事に招待して、毒殺しようとしました。 腹痛が起こりましたが、 幸い命を落とすことはわりませんでした。 その後、争いの原因である弟を自らの手で殺し家督相続争いを終わらせました。
そして実母は実家である最上(お隣の国)に帰りました。

 その後 秀吉が亡くなり、 権力を持って来た会津。 正宗は徳川に見方して、 会津を最上と共に挟み撃ちする計画をたてました。
しかし、 会津に向かう徳川に石田三成が撃ってきました。 徳川は引き返したので、最上も正宗も苦戦しました。 そしてついに、会津が最上を滅ぼす直前、 家来は 最上を救うのはあきらめてほしいと嘆願しました。

 その時、 正宗は家臣に言います。 「最上城に母上がおられる以上、 我が身が滅ぼうとも母上を救いに行くのが 息子の道理ではないか。」 

  徳川と石田三成の戦いは一日で終結。 すぐに徳川が応援に駆けつけ、 徳川 正宗の大勝利となりました。

 しかし 領地は拡大できず、岩手にのみに止まることとなりました。 外国に使者を送ったり、ローマ法王に手紙を書いたり、 海外に目をむける先見の明はありましたが、 鎖国で実りませんでした。
ちなみに正宗の時も大きな津波があって、 それに備えるために正宗も努力したようです。

 ところで、私の心を動かしたのは、 自分の命を一度ならず、二度も 殺されそうになりながらも、 実母を命がけで救ったことです。 なんと心の大きな人物だったことでしょうか。
憎しみを愛で消化し、 忘れて、 さらに愛する行為

 親が子供に信仰を捨てさせようと 今なお 日本で起こっている拉致監禁。
信仰者にとって信仰を捨てることは 命を捨てるのも同然のことです。

 親も子供も傷つくことになるわけですが、、 お互い愛し許さなければ天国にはいけません。

 特別は信仰をもっていなかった伊達政宗の息子の道理は、 拉致監禁経験者にとって、 大きな見本となると思うのです。